2013年02月19日
五〇 憲法
憲法という語は昔から広く用いられており、往々諸書にも見えているが、就中聖徳太子の「十七条憲法」は最も名高いものである。しかし近年に至るまでは、現今のように国家の根本法という意義には用いられておらなかった。徳川時代に「憲法部類」という有名な書がある。これは写本で行われて二種あるが、いずれも享保以下の諸法令を分類輯録したもので、その一は明和の頃までに至り、第一巻「殿中向」「御城内」「下馬」より第十巻「諸御書付」「諸奉公人」に至り、総べての法規を載せ、他の一は安永九年に至るまでの法令を載せ、養子、家督、縁組などの事より金銀銭、空米切手などの目《もく》に至っている。また同じく有名な書で「憲法類集」というのがあるが、これは天明七年から文政十二年に至る法令を分類編輯したもので、第一巻「武家諸法度」「殿中向」「疱瘡麻疹」「風邪」などから始まって、第十五巻「借金出入」「かたり并盗賊」「異国船」などに終っている。これらの分類目を観ても、当時のいわゆる「憲法」は広い意味に使ってあって、総べての法規を含んでいたということが知られるのである。
明治時代になっても、明法寮《めいほうりょう》で編纂した「憲法類編」という書物があるが、これは現今の「法令全書」のようなものである。また明治十年から司法省で「憲法志料」が出版になったが、これは故木村|正辞《まさこと》博士の編纂で、推古天皇から後陽成天皇の慶長年中に至るまでの法文を集めたもので、「総類」「文武」「神官僧侶」「農工商」に分類してあって、これまた一般に法令という意味に使ってある。
憲法という重々しい漢語を用うると、あるいは重要なる法律を指すように聞こえぬでもないが、決して現今のように国家の根本法のみを指すものではなかった。故に西洋の法律学が本邦に渡って来たときに、学者は彼のコンスチチューシオン、フェルファッスングなどの語に当てる新語を鋳造する必要があった。支那にもこれに相当する訳語がなかったものと見えて、安政四年に上海で出版になった米人|裨治文《ブリッジメン》氏著の「聯邦志略」にも、合衆国のコンスチチューシオンを「世守成規」と訳してある。我邦においては、慶応二年に出版になった福沢氏の「西洋事情」には、合衆国のコンスチチューシオンを合衆国「律例」と訳してある。慶応四年に加藤|弘之《ひろゆき》先生の著わされた「立憲政体略」には「国憲」と訳され、明治五年に出版された「国法汎論」にも「国憲」の語を用いられ、「憲法」なる語はかえってGesetz即ち成文法に当ててある。
また慶応四年出版の津田|真道《まみち》先生の「泰西国法論」には「根本律法」または「国制」「朝綱」という語が用いてある。
しからば、憲法なる語を始めて現今の意義に用いたのは誰であるか。それは実に箕作麟祥博士であって、明治六年出版の「フランス六法」の中にコンスチチューシオンを「憲法」と訳されたのである。しかしながら、当時は学者は概《おおむ》ね皆な憲法とは通常の法律を指すものであって、箕作博士の訳語は当っておらぬと言うておった。故に後に帝国憲法起草者の一人となった故井上|毅《こわし》君でさえ明治八年にプロイセン憲法を訳された時には「建国法」なる語を用いられた。明治八年の「東京開成学校一覧」には箕作博士の訳語に依って「憲法」としてあるが、同九年には「国憲」と改まっている。明治十三年の東京大学の学科にもやはり「国憲」となっている。前に言った明治十年司法省出版の「憲法志料」にも憲法を広く法令の意味に使っている。これに拠って見ても、当時箕作博士の用例は、未だ一般に採用せられておらなかったことが分る。
しかるに明治天皇が憲法制定の事を勅定し給い、伊藤博文公が憲法取調の勅命を受けられてより、いよいよ「憲法」なる語がコンスチチューシオン、フェルファッスングなどに相当する語となり、帝国大学においても、明治十九年以来憲法なる語を用いるようになったのである。
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五一 民法
民法という語は津田真道先生(当時真一郎)が慶応四年戊辰の年に創制せられたのである。民法なる語は箕作麟祥博士がフランスのコード・シヴィールの訳語として用いられてから一般に行われるようになったから、我輩は始めこれは箕作博士の鋳造された訳語であると信じておったが、これを同博士に質すと、博士はこれは自分の新案ではなく、津田先生の「泰西国法論」に載せてあるのを採用したのであると答えられた。そこでなお津田先生に質して見ると、同先生は、この語は自分がオランダ語のブュルゲルリーク・レグト(Burgerlyk regt)の訳語として新たに作ったものであると答えられた。法律の訳語は始め諸先輩が案出せられてから、幾度も変った後ちに一定したものが多いが、独り「民法」だけは始めから一度も変ったことがなく、また他の名称が案出されたこともなかったのである。
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相続 京都 役員一覧 - 京都府行政書士会
明治時代になっても、明法寮《めいほうりょう》で編纂した「憲法類編」という書物があるが、これは現今の「法令全書」のようなものである。また明治十年から司法省で「憲法志料」が出版になったが、これは故木村|正辞《まさこと》博士の編纂で、推古天皇から後陽成天皇の慶長年中に至るまでの法文を集めたもので、「総類」「文武」「神官僧侶」「農工商」に分類してあって、これまた一般に法令という意味に使ってある。
憲法という重々しい漢語を用うると、あるいは重要なる法律を指すように聞こえぬでもないが、決して現今のように国家の根本法のみを指すものではなかった。故に西洋の法律学が本邦に渡って来たときに、学者は彼のコンスチチューシオン、フェルファッスングなどの語に当てる新語を鋳造する必要があった。支那にもこれに相当する訳語がなかったものと見えて、安政四年に上海で出版になった米人|裨治文《ブリッジメン》氏著の「聯邦志略」にも、合衆国のコンスチチューシオンを「世守成規」と訳してある。我邦においては、慶応二年に出版になった福沢氏の「西洋事情」には、合衆国のコンスチチューシオンを合衆国「律例」と訳してある。慶応四年に加藤|弘之《ひろゆき》先生の著わされた「立憲政体略」には「国憲」と訳され、明治五年に出版された「国法汎論」にも「国憲」の語を用いられ、「憲法」なる語はかえってGesetz即ち成文法に当ててある。
また慶応四年出版の津田|真道《まみち》先生の「泰西国法論」には「根本律法」または「国制」「朝綱」という語が用いてある。
しからば、憲法なる語を始めて現今の意義に用いたのは誰であるか。それは実に箕作麟祥博士であって、明治六年出版の「フランス六法」の中にコンスチチューシオンを「憲法」と訳されたのである。しかしながら、当時は学者は概《おおむ》ね皆な憲法とは通常の法律を指すものであって、箕作博士の訳語は当っておらぬと言うておった。故に後に帝国憲法起草者の一人となった故井上|毅《こわし》君でさえ明治八年にプロイセン憲法を訳された時には「建国法」なる語を用いられた。明治八年の「東京開成学校一覧」には箕作博士の訳語に依って「憲法」としてあるが、同九年には「国憲」と改まっている。明治十三年の東京大学の学科にもやはり「国憲」となっている。前に言った明治十年司法省出版の「憲法志料」にも憲法を広く法令の意味に使っている。これに拠って見ても、当時箕作博士の用例は、未だ一般に採用せられておらなかったことが分る。
しかるに明治天皇が憲法制定の事を勅定し給い、伊藤博文公が憲法取調の勅命を受けられてより、いよいよ「憲法」なる語がコンスチチューシオン、フェルファッスングなどに相当する語となり、帝国大学においても、明治十九年以来憲法なる語を用いるようになったのである。
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五一 民法
民法という語は津田真道先生(当時真一郎)が慶応四年戊辰の年に創制せられたのである。民法なる語は箕作麟祥博士がフランスのコード・シヴィールの訳語として用いられてから一般に行われるようになったから、我輩は始めこれは箕作博士の鋳造された訳語であると信じておったが、これを同博士に質すと、博士はこれは自分の新案ではなく、津田先生の「泰西国法論」に載せてあるのを採用したのであると答えられた。そこでなお津田先生に質して見ると、同先生は、この語は自分がオランダ語のブュルゲルリーク・レグト(Burgerlyk regt)の訳語として新たに作ったものであると答えられた。法律の訳語は始め諸先輩が案出せられてから、幾度も変った後ちに一定したものが多いが、独り「民法」だけは始めから一度も変ったことがなく、また他の名称が案出されたこともなかったのである。
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投稿者 クレジットカード 22:00 | コメント(0)| トラックバック(0)
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