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思わず駈け寄ろうとするかれを

 思わず駈け寄ろうとするかれを、男はしずかにさえぎった。「騒いではならぬ。采女はあのように生きて戻った。さあ、約束じゃ。お身も疑わずに味方になれ。」
 言ううちに、まぼろしの姿はいよいよ明かるくなって、采女の白い顔も、だんだら染めの小袖も袴も、たしかにそこに浮き出して来た。小坂部は堪まりかねてまた呼んだ。
「采女……采女……。」
「姫上……」と、まぼろしの采女は低い声で答えた。
「生きて来やったか。死んだは嘘か……。再び生きて戻りましたか……。ほんに生きたか。」
 また駈け寄ろうとする小坂部の肩をつかんで、男はひき戻した。
「もう疑うところはあるまい。味方になるとすぐにお言やれ。」
 かさねがさねの証拠を見せられて、かれはもう争う気力をうしなってしまった。それでもまだ思い切って応とは言い渋っていると、男は赤児の手から玩具を奪うように、小坂部の掴んでいる懐剣をもぎ取って、蝋燭を床の上に置いた。小坂部はそれらの事には眼をくれないで、ただ一心に采女の顔や形を見つめていると、男が何かの合図をすると共に、一匹の黒い猫が飛び出して来て、彼の足もとにおとなしくうずくまった。彼はその黒猫の襟首を引っ掴んで、片手で懐剣の鞘を払ったかと思ううちに、短い剣は猫の喉笛に突き刺された。
投稿者 クレジットカード 23:46 | コメント(0)| トラックバック(0)
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